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Reinforcing Evangelists and Aiding Pastors

I sent you to reap that for which you have not labored...and you have entered their labors. (John 4:38)

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「マッカサー宣教師」から「マクドナルド宣教師」へ From gMacArthur Missionariesh to gMcDonald Missionariesh パート3

Little Ladies Lead the Lads(小さな女性達が若者を導く)

ほとんどの宣教活動と報告は、あなたが読む祈りの手紙と実際に現場で起こっている事とでは、時々とても異なっている事がある。日本人は「全然違います。」と言う。

ほとんどの宣教師の祈りの手紙やマガジンは、ふつう男性によって書かれ、結果や数、統計、建物、教会建設について書かれている。女性はもっと具体的且つ個人的で、個々の対人関係における活動について語っている。しかしながら、彼女達は詳細にはまり込んでしまい、大きな視点を見逃してしまう事もある。

私達は、偉大なマッカーサーが、海外の偉大な男性達に膨大な聖書と宣教師を送り出すようとの偉大な召集を与えた事を学んできた。しかし、広島と長崎が原子爆弾(これは百万のアメリカ人と日本人の生命を救い、そして2百万人を負傷から守ったかも知れない)の攻撃を受けた直後、何が起こったか、その歴史を掘り下げていくと、どのように祈り、天国を動かすかを知っている、二人の小さく穏やかな女性の話を見出した。彼女達は、マーベル・フランシスとアン・ディーベンドルフである。マーベル・フランシスは、彼女の体験談を本にした。日本が彼女達の滞在を許可したのは、多分、この二人の小さな女性達は、何も害をもたらす事は無いだろうと考えたからであろう。彼女達の心を祝福します。彼女達は、後に入ってくるクリスチャンの兵士(特に第二次世界大戦)と宣教師達の働きの助けの源となった。

ここに、今はセンド・インターナショナルとなっている前の極東福音クルセードのために、マイリー・ムーアハウスによって書かれた「in-house」の本「A Branch Made strong(強められた枝)から引用したいと思う。「19458月、日本の東京と横浜は崩壊した。アメリカの爆撃が木造の家を破壊し、かつて繁栄していた港のコンクリート造りの骨組みだけが僅かに残っただけだった。92日、戦艦ミズオリーの船上で、降伏条項に正式に署名した時、東京湾にはアメリカと連合軍の戦艦が沢山停泊していた。軍隊が中央桟橋で下ろした荷物を輸送する時、兵士達はとても注意深かった。彼らが、占領任務に際し、ジープやトラックで町を走ると、至る所が荒廃と瓦礫で覆われていた。

しかし、彼らが桟橋から車で暫く行くと、何人かは、一軒の教会が無傷のまま爆撃から逃れて奇跡的に建っているのに気づいた。それは、日本で最初に組織立てられたプロテスタントの横浜海岸教会であった。それは、1859年に始まったプロテスタント・ムーブメントであり、後に日本全国に広まった。これら急いでいる兵士達には、この同じ海岸教会が戦後日本の伝道の新しいムーブメントの出発点として、大切な役割を担う事など知る由も無かった。

何週間、何ヶ月間もの占領期間、ユニークなドラマが展開し始めた。占領した側と占領された側が同様に、お互い同士、新しい役割と関係に引き寄せられるようになった。活動的なクリスチャンの兵士達にとって、スリルある霊的な冒険は彼らの人生を変えようとしていた。

日本は荒廃と破壊に叩きのめされた。空爆は、殆どの重要都市と国内産業能力を破壊した。輸送機関は機能不能となり、設備は危険な修理状態にあった。何百万人という都市の住人は田舎に疎開した。日本人植民地住人は、破壊され敗北したかつての日本帝国地からどっと舞い戻ってきた。軍人は一般市民の生活に戻ったが、帰るべき家や仕事がなかった。敗戦から3年の間、経済的に破綻した日本に、大体8百万人の人々が群がって戻って来たのであった。

何年にも亘る戦時中のプロパガンダの後、占領軍が何をするだろうかと恐れていた。しかし、全体的に、占領時の初めの頃に来た老練な兵士たちは、戦争に疲れており、あまり問題を起こさなかった。占領の最初の数日は、一般市民、特に特に子供たちは余り見られなかった。しかし、ある好奇心の若者は、瓦礫の後ろから覗き込んだりしていた。その時、GI兵士は笑顔で彼に板チョコレートを投げてあげた。これらの板チョコレートは、移動する時の兵士達の昼食の割当であり、少しづつ彼らの恐れを取り除いた。」

私の妻の長兄クレアレンスは、383歩兵部隊に任命されたチャップレン(軍属の牧師)であった。その部隊は、船の上陸からと青森に到着するめで苦労して歩く兵士達であった。人々は、町を捨て去り、外人の軍隊が進行してくるので、生活に恐れを持っていた。彼は、丘の頂上に辿り着くと、反対側に日本女性が立ってお辞儀をしていた。彼女は明らかに、「言葉がなかった。」5,000人の制服姿の男性達が行進しながら彼女の側を通り過ぎて行き、ただ道に鳴り響くブーツの音だけが聞こえていた時、彼女はどんなに解放されただろうか。

神様はユーモアーのセンスがある事を証明するために、彼は、マーベルとアンを日本の戦後の宣教活動を始めるために用いられたのであった。小さな女性達によって導かれた小さな若者たちは、原子爆弾が落とされ、日本が降伏して1週間後の1945年に上陸した占領軍であった。これらの生まれ変わったクリスチャンの若者は、離れるにあたって(何の助けもなく、実際、障害はそこにあった勢力であった)伝道の働きをした。なぜなら、1945815日から少なくとも1957年まで、真のフルタイムの外国人宣教師がいなかったからである。ただ、何人かの日本人の牧師たち、婦人たち、そして若い兵士達だけであった。

これらの人々は、家庭から遠く離れ、ワイン、女性、そして歌にふける仲間の者たちを招き、GIゴスペル・アワーのために空き家となっている建物を求めた。この集まりは、土曜日の夜に開かれ、アメリカのユース・フオ―・クライスト(青年をキリストへ)のラリーの形を取った。何千人という日本の若者が英語のみのラリーに惹かれていた。

Branch Made Strong」より、再び引用したい。

「マニラの活発なGIゴスペル・アワー・ミーティングによって祝福され、チャップレンたちとGIたちは、日本でも同じようなミーティングが開かれるよう祈った。日本で最初のGIゴスペル・アワーは、19459月に横浜から20マイル離れた淵野辺近くの相模原の兵器工場で持たれた。これは、日本の無条件降伏から丁度一ヶ月後であった。

現在、海岸教会は第一横浜チャペルセンターとなっている。107日、第一横浜GIゴスペル・アワーが開かれた。チャップレンのL.E.スイートとD.D.ウィルソンがGIグループをアドバイスした。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(2歴代169)神様は、終戦直後に、この約束を、神様のケアの確証とこの困難な時代の導きとして、マーベル・フランシスに与えられた。彼女とその姉妹のアン・ディーベンドルフ夫人は、クリスチャン・アンド・ミッショナリー・アライアンスの宣教師として、約30年以上仕えた。兄弟団宣教師のローラ・モウク夫人と共に、彼らは、戦時中に本国送還を受け入れるよりむしろ、日本に滞在する事を選択した。戦争行為が終了次第、彼らは日本人への伝道に着手した。

彼らは、他の外国人女性と共に、東京都世田谷の九品仏近くのフランシスカン病院に抑留された。東京はゆっくりと普通の生活状態を取り戻して行くにつれ、彼らは導きと供給を求めて、神様を待ち望んだ。日本人の必要は切羽詰っていた。これらの女性達は、日本語でコミュニケーションを取る事が出来た。彼らは福音のメッセージを持っていたが、助けが必要だった。彼らは、人口700万人の町において、他の3人の宣教師を含めてたった6人であった。どこから始めたら良いのだろうか?」

マーベル・フランシスは「One Shall Chase a Thousand」(一人が千人を追いかける)を書いた。「彼らはそんなに長きに亘って思い巡らす必要は無かった。占領軍のアメリカ人兵士と彼のクリスチャンの仲間たちは、東京の混雑した電車に乗っていた。彼らは、そこでアメリカ人女性を見た――が、それは、彼女が微笑み明かりがもたらされたまでは気づかなかった。g彼女はアメリカ人宣教師に違いない。hとGIグループのリーダーが言った。それで、ディーベンドルフ夫人が電車から降りようとした時、4人のアメリカ人兵士達が彼女の横に来た。

g貴女は宣教師ですか?hと彼らは尋ねた。彼女が自分は誰かと告げた時、彼らはとてもエキサイトした。g私達はどのようにアメリカ人の宣教師を得る事が出来るか知りませんでしたが、私達がフィリピンで始めたゴスペル・アワーを始め、私達が集まる場所を見つけています。hと彼らは彼女に告げた。

彼女は、その若者たちを、東京の銀座の大通りに位置する最初のメソジスト教会の日本人牧師の所に連れて行った。彼はこの考えにとても喜んだ。その教会には、爆弾のため屋根に大きな穴が開いていた。でも、ゴスペル・グループはその屋根の穴を喜んでいた。なぜなら、その喜びに満ちた歌声がその穴から、戦争で荒廃した町中に響き渡るからである。

この方法で、神様は新しい事をするというご計画の3つの主要な要素をもたらされた。

戦争で疲れ、助けを必要としている日本人に、兵士達は熱心に神様に仕えた。そしてベテランで能力のある宣教師達は、日本人の必要を満たすため、エネルギーに満ちた兵士達を導いたのである。それぞれの要素は不完全ではあるが、神様は、このまれに見るコンビネーションを用いて、御自身のご計画を達成された。日本人達は幻滅をさせられていて、魂を満たすメッセージを聞くのに必死であった。兵士達の中でも、神様は霊的覚醒とリバイバルの働きをしておられた。そしてこれらの若い男女たちは、軍隊コミュニティの内外において、ミニストリーの経路を必要としていた。占領軍のメンバーとして、クリスチャン兵士達は、仕える為の物品や時間を得る経路があった。そして、心はキリストへの愛に燃えていた。女性宣教師達は、献身的で能力ある働き人たちであったが、資材やエネルギー、彼らの重荷になっていた経済的な必要が満たされることはなかった。クリスチャン・アンド・ミッショナリー・アライアンスは日本に再入国する事に決め、ミス・フランシスとディーベンドルフが準備が出来ていて有望であった。神様は、共通の価値ためにこれらの全ての要因を働かせたのである。新しい地域に、真のぶどうの木の命をもたらすため、新しい枝が形作られたのであった。

占領軍が、日本帝国の色々な町々に入っていった時、新しいGIゴスペル・アワーのミーティングが次々と湧き出てきた。1946年には、日本で15GIゴスペル・アワーが持たれた。6ヶ月毎に兵士の移動交代があったけれども、このミーティングは続けられた。

土曜の夜のゴスペル・アワーは、もっとも著しい活動であったが、それは、GIたちによってもたらされただけではなかった。横浜グループは、最初に組織立てられ、忙しい中心部に位置しており、活動スケジュールに満たされていた。

「土曜夜―海岸教会のGIゴスペル・アワー

 日曜日―教会礼拝の他に加えられる、g私達は、日曜日の夜のために祈った、多くのチャプレンは、一致して伝道するよう努力する必要があると感じていた。広い赤十字の食堂で日曜日夜のミーティングを持つのに、それほど時間は掛からなかった。私達の祈りに対するこれ以上の良い答えはなかったほどである。。なぜなら、迷彩色姿の15,000の魂が、毎日食堂に出入りしていたからである。各ミーティングには、数百人の群衆が集まる4階全フロアーを使用した。私達のGI聖歌隊は、2つの赤十字のピアノで合唱した。シオンの歌声は空中に広がり、救いの福音が語られ、神の恵みによって主を求め見出した人々で祈りの部屋は満たされ、天国が地上にもたらされた。

月曜日の夜は、祈りと学びのために集まった個々の働き人のために使われた。それから、彼らは、大通りや、脇道に行って証をした。

火曜日の夜は、祈り会であった。多くの人々の証があり、中には、前日の伝道で救われた人々も加わっていた。

水曜日の夜は、聖書勉強会があり、普通はチャップレンによって導かれた。

木曜日の夜は、GI聖歌隊の練習。多くの教派から約30-40人強の人々が集まった。

金曜日の夜は、クリスチャン生活のクラス。若く燃えているクリスチャンが、このようなスケジュールをこなす事が出来た。

多くのGIは、日本人に働きかけた。横浜の関東学院の学長佐田加氏は、日本の若者に伝道するため、ユース・フオー・クライストの週3回のミーティングに、学院を使用する事に同意してくれた。後に、毎週のミーティングは、桜木町近くの本町小学校で開かれた。このミーティングを通して、何百人というティーンエイジャーが福音を聞いた。他のグループは、横浜の北部にある新子安にてミーティングを持った。1946年の春、鶴見小学校で開かれたユース・フォー・クライストのミーティングは400人の若者を集め、後に2つに分かれてミーティングを持つようになった。

コンタクトは,多くの場所で開かれたゴスペル・ミーティングと聖書勉強の結果である、GIゴスペル・アワーとYFC(ユース・フォー・クライスト)のミーティングによって取った。神様は、クリスチャン兵士達を日本全国に散らし、そしてミニストリーが多くの地域で同時に生じた。ミーティングやクラスの報告が、神戸、大阪、九州の町々、そして仙台、札幌、その他東北の色々な町々から入ってきた。」

何人かの勇敢な宣教師達は、兵士達ではなかった。彼らは、DACたち(軍のために働く一般市民)フィッズ家は、土曜日のGIゴスペル・アワー、そして彼らの家の教会をもって、横浜チャペル・センターを助けた。シェリル一家とバニー・シラバートは彼らと共に働いた。アメリカ陸軍は、たとえ彼らが一般市民であっても、彼らの調達や修理の働きに対して、彼らに金銭を支払った。

私の妻、息子達と私はよくそこに招かれて、土曜日の夜説教し、そして一晩宿泊して日曜礼拝で説教し、良い食事と交わりの時を持った。これらのDACたちは、宣教師の働きをした。今彼らは「テント・メーカー」(働きながら宣教の働きをする)と呼ばれている。私達は、彼らが共に働いている人々と共に、テントを作っていると信じているが、フィッズ家やシェリル家のようでは全くない。彼らは、大きな家族「母国の家族から離れた家族」を作ったのである。

大規模なUS海軍は、横須賀に停泊し、飛行機を運んでいる。飛行機が乗船すれば、5,000人のアメリカ人の男性が町に繰り出す。日本政府は、ヤクザ組織に目を瞑った。彼らは、日本が要求していた「個人的な事業」の体験者であり、アジア諸国からの売春婦などを募っていた。日本軍の従軍慰安婦の事実を暴露したのは、京都の図書館で調べていた孤独な一人の女性であった。それでヤクザは、米軍基地に送り出すため売春婦達を見つける新しい仕事を持ったのである。

1951年でさえ、エディ・リースと私がゴスペル・チームを組んで、横須賀のGIゴスペル・アワーで話すため、駅からホールまで歩いていくと、少なくても20人の日本人売春婦が近寄って声をかけて来た。私は、指揮官に、どうしてこんな事が許されているのかと尋ねた。彼は、それは自分達の手の届かない事だと言った。日本人のマフィアは、いつ船が入ってくるか、何人乗船しているか、そして乗組員は待っている女性がいるのをよく把握していた。よく組織された「艦隊」が艦隊に出会うのである。

  しかし、それは、軍隊の許可なくして日本に入ってくることの出来なかった1945f46'47年の空白の時であり、宣教団体が入国するためには、戦前に存在していた歴史を持っていなければならなかった。この傘も下、1947年以降大軍になったこの小さな足がかりの群れが行進して入って来たのである。

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