“貴女は宣教師ですか?”と彼らは尋ねた。彼女が自分は誰かと告げた時、彼らはとてもエキサイトした。“私達はどのようにアメリカ人の宣教師を得る事が出来るか知りませんでしたが、私達がフィリピンで始めたゴスペル・アワーを始め、私達が集まる場所を見つけています。”と彼らは彼女に告げた。
彼女は、その若者たちを、東京の銀座の大通りに位置する最初のメソジスト教会の日本人牧師の所に連れて行った。彼はこの考えにとても喜んだ。その教会には、爆弾のため屋根に大きな穴が開いていた。でも、ゴスペル・グループはその屋根の穴を喜んでいた。なぜなら、その喜びに満ちた歌声がその穴から、戦争で荒廃した町中に響き渡るからである。
この方法で、神様は新しい事をするというご計画の3つの主要な要素をもたらされた。
戦争で疲れ、助けを必要としている日本人に、兵士達は熱心に神様に仕えた。そしてベテランで能力のある宣教師達は、日本人の必要を満たすため、エネルギーに満ちた兵士達を導いたのである。それぞれの要素は不完全ではあるが、神様は、このまれに見るコンビネーションを用いて、御自身のご計画を達成された。日本人達は幻滅をさせられていて、魂を満たすメッセージを聞くのに必死であった。兵士達の中でも、神様は霊的覚醒とリバイバルの働きをしておられた。そしてこれらの若い男女たちは、軍隊コミュニティの内外において、ミニストリーの経路を必要としていた。占領軍のメンバーとして、クリスチャン兵士達は、仕える為の物品や時間を得る経路があった。そして、心はキリストへの愛に燃えていた。女性宣教師達は、献身的で能力ある働き人たちであったが、資材やエネルギー、彼らの重荷になっていた経済的な必要が満たされることはなかった。クリスチャン・アンド・ミッショナリー・アライアンスは日本に再入国する事に決め、ミス・フランシスとディーベンドルフが準備が出来ていて有望であった。神様は、共通の価値ためにこれらの全ての要因を働かせたのである。新しい地域に、真のぶどうの木の命をもたらすため、新しい枝が形作られたのであった。
占領軍が、日本帝国の色々な町々に入っていった時、新しいGIゴスペル・アワーのミーティングが次々と湧き出てきた。1946年には、日本で15のGIゴスペル・アワーが持たれた。6ヶ月毎に兵士の移動交代があったけれども、このミーティングは続けられた。
土曜の夜のゴスペル・アワーは、もっとも著しい活動であったが、それは、GIたちによってもたらされただけではなかった。横浜グループは、最初に組織立てられ、忙しい中心部に位置しており、活動スケジュールに満たされていた。
「土曜夜―海岸教会のGIゴスペル・アワー
日曜日―教会礼拝の他に加えられる、“私達は、日曜日の夜のために祈った、多くのチャプレンは、一致して伝道するよう努力する必要があると感じていた。広い赤十字の食堂で日曜日夜のミーティングを持つのに、それほど時間は掛からなかった。私達の祈りに対するこれ以上の良い答えはなかったほどである。。なぜなら、迷彩色姿の15,000の魂が、毎日食堂に出入りしていたからである。各ミーティングには、数百人の群衆が集まる4階全フロアーを使用した。私達のGI聖歌隊は、2つの赤十字のピアノで合唱した。シオンの歌声は空中に広がり、救いの福音が語られ、神の恵みによって主を求め見出した人々で祈りの部屋は満たされ、天国が地上にもたらされた。
月曜日の夜は、祈りと学びのために集まった個々の働き人のために使われた。それから、彼らは、大通りや、脇道に行って証をした。
火曜日の夜は、祈り会であった。多くの人々の証があり、中には、前日の伝道で救われた人々も加わっていた。
水曜日の夜は、聖書勉強会があり、普通はチャップレンによって導かれた。
木曜日の夜は、GI聖歌隊の練習。多くの教派から約30-40人強の人々が集まった。
金曜日の夜は、クリスチャン生活のクラス。若く燃えているクリスチャンが、このようなスケジュールをこなす事が出来た。
多くのGIは、日本人に働きかけた。横浜の関東学院の学長佐田加氏は、日本の若者に伝道するため、ユース・フオー・クライストの週3回のミーティングに、学院を使用する事に同意してくれた。後に、毎週のミーティングは、桜木町近くの本町小学校で開かれた。このミーティングを通して、何百人というティーンエイジャーが福音を聞いた。他のグループは、横浜の北部にある新子安にてミーティングを持った。1946年の春、鶴見小学校で開かれたユース・フォー・クライストのミーティングは400人の若者を集め、後に2つに分かれてミーティングを持つようになった。
コンタクトは,多くの場所で開かれたゴスペル・ミーティングと聖書勉強の結果である、GIゴスペル・アワーとYFC(ユース・フォー・クライスト)のミーティングによって取った。神様は、クリスチャン兵士達を日本全国に散らし、そしてミニストリーが多くの地域で同時に生じた。ミーティングやクラスの報告が、神戸、大阪、九州の町々、そして仙台、札幌、その他東北の色々な町々から入ってきた。」
何人かの勇敢な宣教師達は、兵士達ではなかった。彼らは、DACたち(軍のために働く一般市民)フィッズ家は、土曜日のGIゴスペル・アワー、そして彼らの家の教会をもって、横浜チャペル・センターを助けた。シェリル一家とバニー・シラバートは彼らと共に働いた。アメリカ陸軍は、たとえ彼らが一般市民であっても、彼らの調達や修理の働きに対して、彼らに金銭を支払った。
私の妻、息子達と私はよくそこに招かれて、土曜日の夜説教し、そして一晩宿泊して日曜礼拝で説教し、良い食事と交わりの時を持った。これらのDACたちは、宣教師の働きをした。今彼らは「テント・メーカー」(働きながら宣教の働きをする)と呼ばれている。私達は、彼らが共に働いている人々と共に、テントを作っていると信じているが、フィッズ家やシェリル家のようでは全くない。彼らは、大きな家族「母国の家族から離れた家族」を作ったのである。
大規模なUS海軍は、横須賀に停泊し、飛行機を運んでいる。飛行機が乗船すれば、5,000人のアメリカ人の男性が町に繰り出す。日本政府は、ヤクザ組織に目を瞑った。彼らは、日本が要求していた「個人的な事業」の体験者であり、アジア諸国からの売春婦などを募っていた。日本軍の従軍慰安婦の事実を暴露したのは、京都の図書館で調べていた孤独な一人の女性であった。それでヤクザは、米軍基地に送り出すため売春婦達を見つける新しい仕事を持ったのである。
1951年でさえ、エディ・リースと私がゴスペル・チームを組んで、横須賀のGIゴスペル・アワーで話すため、駅からホールまで歩いていくと、少なくても20人の日本人売春婦が近寄って声をかけて来た。私は、指揮官に、どうしてこんな事が許されているのかと尋ねた。彼は、それは自分達の手の届かない事だと言った。日本人のマフィアは、いつ船が入ってくるか、何人乗船しているか、そして乗組員は待っている女性がいるのをよく把握していた。よく組織された「艦隊」が艦隊に出会うのである。
しかし、それは、軍隊の許可なくして日本に入ってくることの出来なかった1945、’46、'47年の空白の時であり、宣教団体が入国するためには、戦前に存在していた歴史を持っていなければならなかった。この傘も下、1947年以降大軍になったこの小さな足がかりの群れが行進して入って来たのである。