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Reinforcing Evangelists and Aiding Pastors

I sent you to reap that for which you have not labored...and you have entered their labors. (John 4:38)

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神の駐日大使 Part II
ASSIST News Service (ANS)    2009年6月21日   

 ケニーとライラ・ジョセフは今でも日本に住んでいます。そして二人合わせて113年間日本の人々に仕えてきました。

                     By: ダン・ウーディング

                     ASSISTミニストリー創設者

日本東京(ANS)発- 1951年、シカゴ生まれの23歳のケニー・ジョセフは、ユース・フォー・クライストの雑誌に掲載されたマッカーサー元帥の招集の記事を読んで、1千万冊のヨハネの福音書と共に、日本人の精神的復興を助けるため日本へと旅立った。

その招集記事にはこう書かれてあった。「誰が、終戦直後の荒廃したこれらの日本人を助けに行きますか?彼らには食料もなく霊的に空虚になっています。」彼は、天皇が「私は神聖ではない。神ではない。」という言葉によって人々の心が挫折しているという記事を読んだ。

その3年後、ノルウェー人家系のライラ・フィンサースは、同様の道のりを辿り、そして二人は日本で出会い、その後結婚した。彼らは二人合せて113年間仕え、ご夫妻は2009年5月31日(日)東京での誕生パーティの席上栄誉を受けた。また同時に彼らの人生と日本での働きについての伝記本もリリースされた。私はこの執筆の特権にあずかった。本のタイトルは「God’s Ambassadors in Japan」(ライプ出版:まだ英語版のみで後日翻訳される)

私は東京滞在中、この非常に並外れたご夫妻と日本での働きや生活について話すため同席した。彼らは現在二人とも80歳である。

ケニー・ジョセフは、インディアナ州のウィノーナ・レイクのコンファレンス・センターで開かれたユース・フォー・クライスト・ラリーで日本への宣教師の必要について、再びチャレンジを受けたという事から話を始めた。

「私は、ムーディー聖書協会のエディ・リースと行きました。そこで、ワールド・ビジョンの創立者であり後にサマリタンズ・パースのボブ・ピアスが朝鮮についての映画を見せて、そしてアジアに来るよう叫び求めました。それから彼は、“日本のドアは開いていないばかりか、ヒンジ(蝶番)がありません。”と言いました。」

「ボブは、日本へ10,000人の宣教師と1千冊のヨハネの福音書が必要であるというマッカーサーの招集の言葉を引用し、それに付け加えて“誰が行きますか?”と言いました。」

ケニーはエディに向かって「前に出よう、そして私達は喜んで宣教師になります、 “でも決して私達を派遣しないで下さい。”と神様に言おう。」と言った。彼がこう言った論理的根拠は、もし、神が彼らの喜んでいく心を見たなら、神は「オーケー! あなたは行く必要がありません。」と言うだろうという事だった。

しかし、彼らが日本に行くという神の召しが現実である事を悟るのに、そんなに時間はかからなかった。彼ら二人は、行く決心をした!

「そして、その時エディと私は22歳で、その年のクリスマス、 雪の降るシカゴに行く代わりに、私は祈るためにフロリダ州のニュー・スミュルナ・ビーチに行きました。そして主に、私とエディにゴスペル・チームとして日本に行って欲しいかどうか、示して下さるよう尋ねました。私は、“もし私達が、私達が居る所と日本の間で会うなら、私は喜んで行きます。”と言いました。」

「2日後、モンタナのユース・フォー・クライストのディレクターであるフランクリン・ロビーから“YFC(ユース・フォー・クライスト)ラリーのため22日間の予約できるか。電報で返答を。」との電報を貰いました。」

ケニーは、ミシガン州のグランドラピッズにいたエディに電話をして、この事を告げた。すると彼は「行こう!」と言った。

ケニーとエディは各自の資金を出資して、中古のシボレーを購入し、雪嵐やバッファローの群れを通り抜けて、モンタナ州のコンラッドでの最初のミーティングに行った。現地に着いた時には、1ガロンのガソリン代くらいの18セントだけしかなかった。

「私達が最初の夜、歌ったり説教したり、また証をした後、多くの人々は救いと宣教への聖別のため前に出てきました。」ケニーは昔を振り返り「献金皿には33ドルの銀貨が捧げられており、私達は翌日急いで銀行へ行き、いわゆる“本物”の札のお金に交換しました。」と言った。

それは結局、日本への長い航海の旅となり、そして、戦争によって荒廃した国での新しい人生となった。彼らは、1951年4月14日に12人客員乗りの貨客船でカリフォルニア州のオークランド を出発した。そして、1951年5月1日に横浜港に到着した。

「その当時、日本はとても荒廃しており、人々は草で苦心して作った穴の中で住んでいました。」彼は思い出しながら「爆弾のクレーターは貧しい人々の住まいになっていました。そして、人々は塞ぎ込んでいました。彼らは長い間、 天皇は神聖であるという嘘を告げられていました。 そして今や、彼はラジオで「私は人間です。」と言ったのです。ですから、人々は「もし、私達の神道の神が人間であると言うなら、私達は誰を信じたらいいのか?」と言っていました。そこで私達は、その空虚さに福音を持って行ったのです。」

さて、次はライラが話す番である。

ライラは笑みを浮かべながら「私が主から宣教師になるよう召されていると感じたのは学生の頃でした。これは、私が決してならないと思っていた事の一つでした。」と話し始めました。「でも、誰かが“もしあなたが出来ないと思う事があるなら、神様に出来ないと告げて、神様にしていただくよう任せなさい。”と言うのを聞きました。それで私はそうしました。すると突然、私の頑固さ、反抗の心が、宣教師になりたいという願いに変えられ、その当時起こっていたすべての事柄の中で、日本は最も需要なフォーカスとなりました。それで私は、主が私を日本に呼んでいると感じました。そして前向きに進んでして行くにつれて、時がきて確信づけられました。」

ケニーは既に、シカゴのTEAM(The Evangelical Alliance Mission)の援助の下にあった。彼女もまた、TEAMの宣教師として,1953年にアメリカ西海岸から貨物船に乗って横浜に上陸した。

ライラは「最初に日本に到着した時、すべてが“本当に未開地”ではないのかと思っていました。」と語った。

「私達のグループの誰かが“ねえ、見て!洗面台があるわ。”と言いました。誰もその言葉に責任を取りたくありませんでした。でも多分、熱い、冷たい水道があるのを見た事、そしてすべてが近代的であったことは驚きであったのではないかと思います。結局、東京はひどい爆撃を受けていたので、私達は、どういう状態を予想していいのか分からなかったのだと思います。」

「それから、私達3人の宣教師は電車に乗り、長野県の山の中の軽井沢という小さな村に向かって行きました。そこは、TEAMが日本語勉強のために新しい宣教師を送り出す所でした。すべては私達のために整えられていました。そこでは、とても特別な日々を過ごし、生涯続く友情も築いていきました。アナとビーシーの他に、ロレイン・リースとパット・ジャンカーが私達のクラスに加わりました。日本人の先生が私達の教室に来て、個人的に教えてくれました。私達は、アメリカの進駐軍に教えていたコースを用いて学びました。早速私達は、“タバコはどこですか?」というようなセンテンスを学びました。話し言葉を早い段階で学びましたが、丁寧な言い方はありませんでした。(後に東京に引っ越した時、集会に何人かの女性達と集まりましたが、彼らが何を言っているのか分からないのに、私はショックを受けました....彼女達の言葉はとても丁寧で、私が学んだ事と異なっていたのです!)」

さて、彼女はどのようにしてケニーと出会ったのだろうか?

「多分、反対だったから惹かれたのかもしれません。きっと。」と言って笑った。「しかし、神様は私達のためにミニストリー持っていました。そして、私達の子供達は、両方からの特徴と面白い性質を兼ね備えています。」

「私が、日曜日の朝、教会の聖歌隊で歌っていた時、初めてケニーに会いました。黒っぽい眼鏡をかけて入って来て、後ろの席に座っていた若いハンサムな青年が見えました。私は、彼がケニー・ジョセフだと直ぐに分かりました。私達は、シカゴのオフィスでTEAMの宣教師たちと連絡を取り合い、そして朝のセッションの間、名前を挙げてそれぞれの人々のために祈っていました。私は興味をそそられましたが、男性を後ろに置いて、宣教師になることに集中するよう決めていました。

ちょうどアメリカを出発する前に、きっぱりとある青年に別れを告げていましたので、私は格好な餌食ではありませんでした。あるいは、そう思って言いました。それでも、この青年を私の思いから追い出す事は出来ませんでした。それで、ある日私は主にこう言いました。

もし、彼が神様が私のために備えて下さっている人、またはその可能性があるなら、私がオルガンを弾く事になっている夜の伝道集会に来るようにして下さい。何とショックな事に、彼は後ろの方を歩いていました!彼は長くはいませんでしたが、確かに中に入ってきました!

ライラはこの神からの「しるし」を内に秘め、この若者が彼女の心を一生懸命に射止めるようにした。「私は決して魂に語りかける事はしませんでした。実際、彼が自分に注目し始めた時、私を得るのはとても難しいと思っていたようです。当時、たくさんの独身者がおり、何人かの世話好きな人々は、仲人役になろうとしていました。

ある日、私達何人かは、車でミーティングへ行くことになりました。私は、最初の祈りの手紙をプリントしようとして、その作業をするため車を降りました。すると、突然、ケニーが私を手伝うため側に来ました。私は彼の助けは必要ではないと感じて、彼を無視していました。後で知った事ですが、彼は、他の宣教師から、この新米の宣教師を手伝うよう言われていたのです。」

まもなく、二人はデートをし、宣教師の間では話の種となった。ケニーは、最初のデートはむしろ悪いものだったと思い起こしている。

彼はこう言った。「私達は最初のデートで、小さな田舎町の泥道を歩きました。その日は雨降りで、大きな水たまりが道一面を覆っていました。ですから私は、“これはチャンスだ!彼女の手を握れる。”と思いました。でも彼女は、私について来ようとはせず、道端の薮につかまっていました。すると突然水たまりに顔から倒れてしまいました。彼女は“私の聖書を持って!自分で起き上がるわ。”と言いました。彼女は水でびしょびしょになった長靴で歩いて家に帰りました。」

その失敗にも拘らず、数ヶ月のデートを重ねて後、1954年11月にケニーはライラを、「四つ角:the four corners」と呼ばれる軽井沢の有名なスポットへ車で連れて行き、膝まづいて結婚の申し込みをした。

「私は申し込みを受け入れ、そして彼はアメリカへ短期の休暇で帰って行きました。」ライラは、当然の事のように思い出した。「その年、私達女性は、私達二人の結婚式が間もなくあるので、一生懸命に勉強しました。実際は、2年間コースの学びでしたが、私達は1年間でその学びを終わらせました。6レッスン毎にテストがあり、そしてこのコースが終了した後、委員の前で口答でのテストがありました。私が学んだ時、委員会の一人は、カナダのプレイリー聖書協会の人でした。勿論その時には、私達ガールズ・ハウスのメンバーは散り散りになりましたが、まだ日本に残っていたロレインとバズは新潟へ、パットとキャルは松本へ、私達は東京へと行きました。お医者さんは、ケニーに今までのように伝道旅行しないで、何か静かな仕事をするよう命じました。それで、彼は日本キリスト教学園で5年間教え、伝道部門を開拓しました。」

二人は、創立100年の軽井沢ユニオン教会で結婚した。

「それは、とてもよいサイズの建物でー静かに建っていて、用いられてー満員でした。」とケニーは思い起こしていた。「ライラは、彼女のために作られた美しい白いウェディング・ドレスを着た典型的な花嫁でした。台湾のモリソン・アカデミーで教えていた彼女の叔母のアルマが、花嫁の付き添い人となりました。私は、大事な行事用にアメリカで購入しておいた黒のスーツを着ました。司会はドン・ホークでした。」

二人には、現在4人の成長した息子がいる。1957年にケン・ジョセフ・ジュニア(キンボー)が生まれ、次に、ロバート(ニックネーム:ボビーからボブへ)が2年後に家族に加わった。彼らの3番目の息子ジェームス(ニックネーム:ジミー)、それから末息子マークが4番目である。

ケニーが日本全国で伝道集会をし始めた時、ライラは女性と子供達へのミニストリーに腰を据えた。

ライラは、あるミニストリーで、とても怖い経験をし、特にある女性についてはとても怖かったと言っている。

「そうです。私達はある悪魔に取り憑かれた女性を取り扱わなければなりませんでした。私達はどう取り扱うのか全然学んだことがなく、本当に怖かったです。」とライラは思い起こした。

「私の息子達は、彼女の息子達に英語を教えていました。彼女はお金持ちの家からの人でした。ある日、彼女は私が悪霊を信じているかどうか尋ねました。その後、彼女は“私は取り憑かれている”と言い、そして彼女に子供たちができるよう5つの神が与えられ、彼女はその名前さえ知っていて、彼らが何であるかを私に言いました。彼らは夜、彼女の所に来て彼女の首を絞めようとすると言いました。ですから、彼女は解放を求めていました。それは、かなり大変な話で、彼女を取り扱う助けをする年配の宣教師がいました。しかし、それは私達の家族は、決して存在するなど夢にも思わなかった世界に目が開かれる事となりました。

ケニーは、最終的にはR.E.A.P.(Reinforcing Evangelists and Aiding Pastors)ミッションをスタートさせ、それは今でも続いている。

「私達は、年に30回、悔い改めとキリストを受け入れる魂を勝ち取るキャンペーンを行っています。この54年間に、46,000人の大人のアジア人が公にキリストを受け入れる決断をしました。」と彼は言っている。

「私達はまた、魂を勝ち取るキャンペーンを持った後、41の教会の建設を助けてきました。今私達は、東京に R.E.A.P.ゴスペル・センターと人のために必要な95,000ドルの目標に半分まで来ました。」

「私達は、この48年間に、1億1千百万ページ以上の福音書を印刷し配布してきました。また、日本語の雑誌1面に広告と福音トラクトの掲載を通して、22,000人の魂がキリストを求めているのを見てきました。」

「私達は、24ヶ国に出て行った301人の日本人の中の何人かを、正真正銘の海外宣教師として送り出すのを助けてきました。」

私は最後に、ケニーにこのように尋ねてインタビューを終えた。

もし、マッカーサー元帥がまだ生きていて、これらの年月に、日本での彼らの働きを知ったら、何と言うだろうかと。

ケニーは暫く黙って、こう言った。「たぶん彼は“よくやった、あなたがた良い忠実なしもべ達よ。”と言うと思います。」

それから彼は、日本での宣教師としてのライラと共に、他の人々も加わるよう呼びかけた。

「こちらに来て下さい。」と呼びかけた。

詳しい情報はwww.kennyjoseph.comを見て下さい。

もし、彼らの働きの全てを知りたい人は、「God`s Ambassadors in Japan」(日本語訳は未だありませんが、後日翻訳される予定)をwww.amazon.comで間もなく販売されます。

注:このインタビューを書き直して下さったロビン・フロスとに感謝します。

ダン・ウーディング(68)は、受賞をされた英国のジャーナリストで、現在はノーマ夫人と共に南部カリフォルニアに住んでいる。彼は、ASSIST(Aid to Special Saints in Strategic Times)、ANS(the ASSIST News Serviceの創設者並びにディレクターである。また the Missionaries News Service(www.missionariesnews.tv),

Safe Worlds IPTV’s Faith, Hope and Charity channelのアメリカ支局長である。彼は、10年間、ワシントンDCのUPIラジオネットワークのコメンテーターをした後、現在は、南部カリフォルニアのKWVEの“フロント・ページ・ラジオ”ショーを毎週担当している。この番組はまた、アメリカ全国のカルバリー・ラジオ・ネットワークをも行っている。この番組はまた、UCB UKとカルバリー・チャペル・ラジオUKでイギリスでも放送されている。ウーディングは、42冊の本も執筆し、最新本は彼の伝記 “From Tabloid to Truth”(タブロイド誌から真理へ)がTheatron Booksによって出版されている。

注文:www.fromtabloidtotruth.com email: [email protected]

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