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Reinforcing Evangelists and Aiding Pastors

I sent you to reap that for which you have not labored...and you have entered their labors. (John 4:38)

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1,400年前、日本で初めてのイースター! (Japan’s First Easter….1400 years ago!) By REAPミッション・ディレクター:ケニー・ジョセフ

東方教会「ネストリアン」は如何に日本で最初のイースターを守ったか?

40年間の調査結果―129冊の本) 

イースター用の帽子もなく、イースターバニー(うさぎ)、色付きゆで卵もなく、銀座通りをねり歩くイースター・パレードもなく、日本で初めてのイースターが行なわれた銀座でさえも、これらはなかった。

最高権威者は、これらの日本最初のイースター礼拝者は東方教会のアッシリア人クリスチャンであり、後にニックネームで「ネストリアン」(景教)と呼ばれていた人々であるとしている。彼らは恐らく、西暦544年(欽明5年)に、瀬戸内海の坂越の海岸(今は姫路の近く)の近くの薄暗い小さな教会で、簡単だが尊厳に満ちた日本で最初のイースターを祝った。彼らは、イエスが話していたアラム語を話していた。この隠された歴史的な出来事は、日本への最初のローマカトリック宣教師である聖フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸の1,000年前に起こった。

この流浪の宣教師のグループの起源は、西暦428年のアッシリアン・ビショップ、アンテオケのネストリアス、そしてローマの教会の間の神学的な論争から起こった。それは、マリアはイエスの母であり、カトリック教会が信じているような「神の母」(Theotokos-セオトコス)ではないという信仰に関する記事についてであった。ネストリアスは、不当に退位させられ、彼の弟子たちはイラクのエデッサからペルシャ、メソポタミア、そしてアラビアに行った。それでも、他の人々は、中国北部、中央アジア、韓国、日本、そして今日マー・トマ(聖トマスのクリスチャン)として知られているインドにも宣教団体を設立した。

これらタフで困難な旅であったが、温順で自由を愛するアッシリア民族は、彼らの教会が邪悪な力の政治によって脅かされるまで、カスピ海の側に住んでいた。それから、彼らは、全ての一族または家族として、礼拝の自由を求めて、日の出に向かって進んだ。それは遂には日本にまで来るようになった。

  • 中国到着(Arrival in China

彼らが子馬の艦隊でアッシリアを出発した時、彼らの事が中国のワング・ホの谷間で再び分かるまで、歴史家が知る限り、彼らは姿を消していた。北京博物館には、未開のタタール人の3隻の船荷がチャイジュ島までの船賃の税金納入領収書がある。韓国人学者は、これをチェジュ島(済州島)と信じている。どのようにして彼らが、カイフェング(Kaifeng)からキアングス(Kiangsu)に着いたかは不明である。

これらの自由を愛する流浪の民の存在は、中国歴史の7世紀間に及ぶ。弘法大師、でんぎょう大師と37人の日本人学者は、京都から中国に行った。そこで、彼らは、天津景教教会でチャング・アンのネストリアン宣教師から、マタイの福音書、十戒、そして他のキリスト教文書を受け取った。これは、阿弥陀仏教の浄土宗に基づく信仰による救いを、強く強調している理由を釈明しているかもしれない。彼らはこの教えを日本にもたらし、それは今でも際立っている。

  • 坂越に上陸(Landing at Sakoshi

これら巡礼の父達への先駆者たちは、1,000年後に中国から韓国のチャイ・ジュ(チェジュ)島に直行し、瀬戸内海への航路を開き、そして544年の晩秋に坂越に上陸した。これら正直なアッシリア人は、自分自身の旅費を払い、荒廃ではなく繁栄あるコミュニティを築き、そこで彼らは、信仰を広めながら、木工、教えること、馬、皮革の技術を用いた。

彼らの最初の目標は、窓のための狭い切れ目を入れ、踏みつけた粘土の床を敷き、簡単に裂いた丸太の教会を建てることだった。羊の毛皮が祭壇の前に置かれ、狼の毛皮のカーテンがドアであり、暗さは、潤滑油のランプによって弱められた。

宣教師の長は、日本で最初の教会において、イエス・キリストの復活を祝う時、白、赤、金で織られた最高の衣を着け、イースターの日に他の人々を導いた。そこには、何の絵も偶像もなく、ただ彼らの救い主の復活を思い出させる、黒い素朴な十字架があっただけだった。

インドから取り入れられた仏教は、日本の王室などに紹介されたが、社会の下層階級には浸透しなかった。無名の者たちは、京都近辺に引っ越してきた新しい人々に対して、何の反感や敵対心の態度を示すことはなかった。彼らは、西暦603年にカドナ(角名?)に別の教会を建て、日本人達はその彼らの礼拝に加わった。

西暦664年に、伝説の皇太子聖徳太子によって書かれた「17条の憲法」は、「自由と個人的な権利に満ちた」東方教会に与えられた。彼らは、彼らの聖書的な信仰を妥協する誘惑に出会うまで、これを喜んで受け入れた。そして、一般民衆と併合し変化していった。宣教師達やその妻達は、今日英語を教えているのと同じように、日本人にアラム語を教えた。

私達が、西暦631年に中国が宣言した天皇に注目するなら、なぜこの非好戦的な教会グループが彼らの信仰と働きのルールに従う自由を与えられたかが分かる。だが一方で、後にローマやポルトガル・カトリック宣教師は、彼らのあらゆる変化に悩まされた。彼は、これらネストリアンの宣教師についてShensiの中でこう言っていた。「誰も彼らを悩まさないように。これらの人々は誰に対しても危害を加えたいとは思わず、むしろ良い事をするために働いている。」

  • 孤児院と病院 (Orphanage and Hospital)

日本では、奇跡的な業は細工された。彼らは日本で最初の孤児院(秘伝院)を坂越に、また最初の慈善病院(療病院)を日本に設立した。アロペン(アブラハム)とアッシリア人医療宣教師は、光明皇后の招きにより、彼女の息子の血友病の癒しのために、中国北部から来日した。彼は、彼らにマタイ8章を読み、祈り、そして彼は癒された。彼らは、730年に日本最初のハンセン病院を奈良に設立した。光明皇后さえも、これら貧しい弱者に仕えた。彼女はキリストを受け入れたが、聖武天皇の皇室内において、「秘密の信徒」であることを強いられた。仏教徒は、彼女のクリスチャン信仰を堕落させ、「基盤のない起源の神話」へと働きかけた。

しかし、独特の体である「ネストリア人」たちは、事実上15世紀までに極東に消えていった。なぜか? 微妙な宗教的妥協と、元気づける単純な信仰を複雑な命の無い儀式へと変えていったからである。尊敬できる歴史家に「ネストリア人たちに何が起こったのか?」と尋ねると、彼は、京都の三角の鳥居、「ダビデの神殿」の遺跡、1400年の「イスラエルの泉」、独特な埋葬塚、真言宗や曹洞宗に大きな影響を与えた教え、神道神社、信仰による救い、神道の「お神輿」と契約の箱、神道神社の設計、旧約聖書の幕屋の模倣、九州地蔵(ジーザス)、牛祭り(牛の捧げ物の祭り)、そして「水取り式」などを指し示す。

彼らが住んだ所の京都郊外の「太秦」と言う名前は、アッシリア語の「Ishoo M’chikkha

の日本語の訛りで「メサイアであるイエス」という意味である。それは、それらのアッシリア人の別名「Hata-秦」または「Kunyue」人を示すため用いられた。社会学者もこれに同意する。彼が、1400年前の最初のイースター日曜日に、すすけた薄暗い教会で礼拝を捧げた、それらの単純な初期のクリスチャンたちから湧き上がった偉大な社会福祉の働きを調べるなら、社会学者もこれらの心情に同意する。

  • 仏教はネストリア主義を取り入れた?

W.アレキサンダーは、毎日ディリーニュースにこう書いた。最初のクリスチャンが日本に来たのは、西暦543年(欽明4年)に坂越に上陸したアッシリアのネストリア人であると書いた。それは、1859年に最初のプロテスタントの宣教師が来日する1316年前のことである。アッシリア人のクリスチャンの影響を通して、日本人は、最初の孤児院、病院、ハンセン病療養院を坂越、太秦、そして奈良に建てた。

外国の宗教である仏教は、インドから中国を通り韓国を経由して、西暦538年に日本に到来した。そして間もなく、多くの日本人学者たちは、この信仰を学ぶために中国に渡った。これらの中には、弘法大師やでんぎょう大師によって導かれた有名な37人の僧侶/学者がいた。この二人の大師は、西安にてネストリア人宣教師のアロペンからマタイの福音書やクリスチャン文書を受け取っていた。多分これを仏教の一派と誤解して、弘法大師はこれを自分の仏教の教えのなかにまとめた。キリスト教信仰と真言宗の間には、確かに似通っているものがある。彼はこの教えを日本に持ち帰り、浄土仏教へと後に発展していった。そして、これは今日の日本において、仏教の中でも最も優勢なものとなった。浄土仏教の中で、キリスト教に最も酷似しているものは、行いよりも信仰による救いを強く強調している点である。これは「他力本願」と呼ばれ、「他の力」による救いを意味し、「自分の力」つまり「自力」と明確に区別している。浄土仏教宗派は、2千万人くらいの信者がいると報告している。

日本聖書協会の石川氏は、高野山(真言宗の本部)で、多くの聖書が売られている現象を説明してこう言っている。それは多分、真言宗の創立者である弘法大師が中国滞在中に、ネストリアン主義よって影響を受けた結果であろう。高野山には、有名なネストリアン石碑の模倣が建てられている。実物は、西暦781年、北中国の西安に建てられた。

ネストリアン・リサーチ・センターは、今でも京都に存在し、弘法大師の直系の子孫であるアト・アボットによって運営されている。現在のネストリアン教会の長は、名誉ある日本駐在委員、京都の池田栄博士と続けて連絡を取り合っている。ネストリアン人宣教師が来日したという主張への更なる支持は、西暦604年に伝説の聖徳太子によって作成された有名な「十七条の憲法」である。これは、ネストリア人が京都の郊外「太秦」において満喫した完全な自由と個人の権利を与えた。

  • ネストリアン主義が神道主義に影響を与えた?

ほとんどの神道の神社は、旧約聖書の幕屋の型に沿って建てられた。それは、左側に清めの洗盤と聖水、下を通って清められる聖い入り口(鳥居)、そして、視野から隠された礼拝の対象物としての神社そのものの中の至聖所である。この型は、日本人が中国で出会ったアッシリア人ネストリアン宣教師によって与えられた幕屋の文献と製図から受けた。更なる類似点は、神道の持ち運び神社(神輿)である。これは、旧約聖書の契約の箱とよく似ており、祭りの時に担がれ運ばれる。

世界的に有名なエール大学の歴史学者ケネス・スコット・ラトーレッテはこう述べている。「タン王朝の時、どんなクリスチャンであろうと、クリスチャンの影響であろうといずれも、中国、韓国、日本の近郊の東方文化に進展していったかは、確かに証明することは出来ない。私達は、多くの韓国人と日本人が、中国のチャンガンに来たことは知っている。その国際都市において、彼らはそこに滞在していた何人かのクリスチャンに出会い、彼らの教えの特徴を家に持ち帰った。何人かのクリスチャン商人は、北インドシナの港に来たかも知れない。

  • 同等でない宣教師ビジョン

キリスト教は、アッシリア人ネストリアン、ヤコブ人、ギリシャ正教会、アメリカ人宣教師たちによって、ユーフラテス川の東側に広まった。アッシリア人ネストリアンは、大多数であった。

しかしながら、彼らの失敗、弱さ、現地化への欠乏について言われている事柄は、多く語られなければならない。「内なる衝動、宣教師のビジョンとスピリットがあった。これらは、その時から宗教改革の後の宣教師ビジョンの覚醒の時期まで、「現代宣教の時代」と普通呼ばれているものとは同等ではなかった。」

十分に伝道されていない自分自身の民から離れているという、途方も無い事実は、若者の間のムーブメントに対して、現代評論家たちに偽りをもたらしている。

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